☆日曜日 午前10時30分 聖日礼拝 週の始めの朝、私たちの造り主なる神…続きを見る
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12月に入り、秋田は間もなく雪の季節を迎えようとしていますが、この年もここまで「こころのリビング」へお出でくださり、ありがとうございました。
日暮れが早くなるこの時期、それを覆うように、そこかしこで美しいクリスマスの飾り付けとイルミネーションが闇を照らし出し、心を和ませてくれます。
教会の中でも、燭火礼拝とかキャンドルサービスと呼ばれ、ろうそくの明かりを灯す集いが行われるのもこの時期ならではの営みです。
昼間の光の下では目立たないろうそくのともし火も、暗がりの中では俄然その存在感を増してきます。教会を訪れる人々の中には、順風満帆の明るい人生であるよりは、問題や苦しみを抱える中からいらっしゃる方が少なくありません。そこには聖書を通して示される神のことばが、今後の歩みを照らし出す光として認識されるからだといえるでしょう。
そうして、今までは気が付かなかった目に見えるものの背後にある、神の愛とその広がりが、実は自分にも及んでいる事実に目が開かれてゆきます。
聖書は神のひとり子であるキリストの誕生に当たり、結婚を控え、婚約中であったマリアという女性が選ばれ、その胎に救い主を宿したことを記しています。
それはマリアにとっても婚約者のヨセフを始め、その周囲の人々にとって、どれほどの困惑と動揺をもたらしたことでしょう。平凡な、ごく普通の結婚をしたかった、とあるいは思ったかもしれません。
人生の苦難に出会うとき「どうして自分だけがこんな目に…」というつぶやきが思わず湧いてくることですが、もし、思い通りの人生ならばそこにはなかった、そこを通らなければ知るはずのなかった人、それまで知らなかった世界との出会いがあることも事実でしょう。
マリアとの今後を清算しようと考えていた婚約者のヨセフは、夢に現れた天使から、彼女に起きた出来事が、神からのものであることを告げられ、懐妊した彼女を受け入れますが、その後、あたかも二人に向けられた疑惑の目を避けるかのように、当時のローマ皇帝の勅令による住民登録のためにと滞在した、旅先のベツレヘムの家畜小屋でキリストは誕生し、飼葉桶がその最初のゆりかごとなります。
いったい旅先の家畜小屋で子どもを産みたい女性がどこにいるでしょう?しかし、その晩、そこでなければ来られなかった夜番の羊飼いたちが、天使の知らせによって、お祝いにやって来ます。その後も、星の出現によりキリスト誕生を知った東方の博士たちの来訪、さらにはその一帯を管轄するヘロデ王にいのちを狙われ、エジプトへの逃避行と、新婚夫婦一家は思いもかけない世界へと追いやられてゆくことになりました。
今や、クリスマスは特別な日として世界中の人に知られ、子どもたちにとっては大切な思い出が年々に刻まれてゆく喜びの時となっています。けれどもその始まりは、ごく平凡に暮らしたいと願っていた若い二人にとって思わぬ連続の中に進んで行きました。
一年を振り返り、何事もなくここまで来た、という方もおられれば、突然の出来事に翻弄され、喪失や悲しみを通って今を迎えているという方もおられることでしょう。けれども、私たちにマイナスと見える現実の中に、神は働いておられ、問題が問題で終わることなく、悲しみの涙が無駄に流されることのない将来を用意しておられるとしたらどうでしょう。
キリストは予想外の展開に戸惑う若い二人の間に生を受け、貧しい羊飼いたちにその誕生の祝いを受けました。
一年を振り返るこの時、思わぬ出来事の中にこそ、その身を置かれる救い主キリストが、その心のうちにいらしてくださり、希望の光となってくださいますようにとお祈りしてやみません。
「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」 聖書
※各集会の様子は「igm秋田教会」で検索するとご覧になれます。
教会の名前となっている「インマヌエル」とは「神は私たちと共におられる」という意味の、聖書に記されていることばです。
それは、私たちが順境の時はもとより、困難、失望、孤独の中にあってさえ、神が共におられ、信ずる者の味方となってくださるということです。
教会で歌われる讃美歌の中に次のようなものがあります
「人生の海の嵐にもまれきしこの身も
不思議なる神の手により 命拾いしぬ
いと静けき港に着き われは今安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し」
教会は港のように人生航海の途上にある人たちが立ち寄り、神さまの愛と安らぎの中で休み、くつろぎ、養われ、整えられてゆく場です。
どうぞ、どなたも、ありのままの素の自分になってくつろげる、こころのリビングへおいで下さい。
なお、メールアドレスは以下の通りです。
igm.akita@softbank.ne.jp