オーナーからのメッセージ

思わぬ出来事の中に

オーナーからのメッセージ

 12月に入り、秋田は間もなく雪の季節を迎えようとしていますが、この年もここまで「こころのリビング」へお出でくださり、ありがとうございました。

 日暮れが早くなるこの時期、それを覆うように、そこかしこで美しいクリスマスの飾り付けとイルミネーションが闇を照らし出し、心を和ませてくれます。

 教会の中でも、燭火礼拝とかキャンドルサービスと呼ばれ、ろうそくの明かりを灯す集いが行われるのもこの時期ならではの営みです。

 昼間の光の下では目立たないろうそくのともし火も、暗がりの中では俄然その存在感を増してきます。教会を訪れる人々の中には、順風満帆の明るい人生であるよりは、問題や苦しみを抱える中からいらっしゃる方が少なくありません。そこには聖書を通して示される神のことばが、今後の歩みを照らし出す光として認識されるからだといえるでしょう。

 そうして、今までは気が付かなかった目に見えるものの背後にある、神の愛とその広がりが、実は自分にも及んでいる事実に目が開かれてゆきます。

 聖書は神のひとり子であるキリストの誕生に当たり、結婚を控え、婚約中であったマリアという女性が選ばれ、その胎に救い主を宿したことを記しています。

 それはマリアにとっても婚約者のヨセフを始め、その周囲の人々にとって、どれほどの困惑と動揺をもたらしたことでしょう。平凡な、ごく普通の結婚をしたかった、とあるいは思ったかもしれません。

 人生の苦難に出会うとき「どうして自分だけがこんな目に…」というつぶやきが思わず湧いてくることですが、もし、思い通りの人生ならばそこにはなかった、そこを通らなければ知るはずのなかった人、それまで知らなかった世界との出会いがあることも事実でしょう。

 マリアとの今後を清算しようと考えていた婚約者のヨセフは、夢に現れた天使から、彼女に起きた出来事が、神からのものであることを告げられ、懐妊した彼女を受け入れますが、その後、あたかも二人に向けられた疑惑の目を避けるかのように、当時のローマ皇帝の勅令による住民登録のためにと滞在した、旅先のベツレヘムの家畜小屋でキリストは誕生し、飼葉桶がその最初のゆりかごとなります。

 いったい旅先の家畜小屋で子どもを産みたい女性がどこにいるでしょう?しかし、その晩、そこでなければ来られなかった夜番の羊飼いたちが、天使の知らせによって、お祝いにやって来ます。その後も、星の出現によりキリスト誕生を知った東方の博士たちの来訪、さらにはその一帯を管轄するヘロデ王にいのちを狙われ、エジプトへの逃避行と、新婚夫婦一家は思いもかけない世界へと追いやられてゆくことになりました。

 今や、クリスマスは特別な日として世界中の人に知られ、子どもたちにとっては大切な思い出が年々に刻まれてゆく喜びの時となっています。けれどもその始まりは、ごく平凡に暮らしたいと願っていた若い二人にとって思わぬ連続の中に進んで行きました。

 一年を振り返り、何事もなくここまで来た、という方もおられれば、突然の出来事に翻弄され、喪失や悲しみを通って今を迎えているという方もおられることでしょう。けれども、私たちにマイナスと見える現実の中に、神は働いておられ、問題が問題で終わることなく、悲しみの涙が無駄に流されることのない将来を用意しておられるとしたらどうでしょう。

 キリストは予想外の展開に戸惑う若い二人の間に生を受け、貧しい羊飼いたちにその誕生の祝いを受けました。

 一年を振り返るこの時、思わぬ出来事の中にこそ、その身を置かれる救い主キリストが、その心のうちにいらしてくださり、希望の光となってくださいますようにとお祈りしてやみません。

「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」 聖書



※各集会の様子は「igm秋田教会」で検索するとご覧になれます。

更新日: 2025-12-02

希望を神に

オーナーからのメッセージ

 11月に入り、秋の深まりとともに木々の紅葉も進み、いよいよ朝夕の冷え込みを後押しするかのような気候となっています。ただ、最近は美しい紅葉より、東北一円のもっぱらの話題は「熊情報」となっており、特に秋田は自衛隊の派遣が要請されるほど、人身への被害がもたらされ、教会の周辺でもますます注意が喚起されるようになっています。

 本来は山深く、人を避けてどんぐりや木の実を食べて過ごせるはずの穏やかな生き物であっても、臆病さゆえに、里に下りればパニックになりやすく、また親子連れともなれば、本能的に攻撃に転じて甚大な被害をもたらす存在となってしまいます。

 かつては人の営みがあった里山の暮らしが、人口の流出と共に難しくなり、境界線を失った荒れ放題の休耕田や河川敷は町へ通じる道となって、この窮状を生んでいるともいえるでしょう。

 聖書は、かつて神がこの世界を創造された時「見よ、それは非常に良かった。」と記しています。今もこの世界を見渡すとき、確かに崇高なまでの美しさが、自然の中に、また人の間にもみられますが、それに並ぶように、目を覆うばかりの悲惨な災害や、耳を塞ぎたくなるような紛争や貧困といった悲しい現実があることも事実です。

 かつて、創造主なる神より、この世界の管理者たるべく頂点に置かれた人は、神の愛をもってすべてを治める存在のはずでした。

 けれども、そのようにして託された世界の中で、あるとき神よりも自分を上に置いて独立し、神に背を向け始めた時、神のもとに置かれた自然界と、生けるものの間に保たれていたすべての秩序は狂い始め、今の私たちが見るように、この世界のあちこちに苦しみがはびこるようになりました。

 聖書という書物は、そうして損なわれたこの世界の回復のために、神が何を計画し、それがどのように進められているのかを説明している書、といえるでしょう。

 そこにはこの世界に不幸をもたらした、そもそもの原因である神と人との断絶をまず回復し、その懸け橋となるべく、天から送られた神のひとり子が人としてこの地上に現れ、人がどのようなどん底の状態にあったとしても、誰もがそこから神のもとに立ち返る道を開くために、そのいのちを代価として、十字架にかかったことが語られています。

 ある方からすれば人の死は、絶望であり、敗北と映るでしょう。けれどもキリストはその死をもって、私たちと神の間にある「背きの罪」を自ら引き受けて始末をつけ、更にはその三日後のよみがえりをもって、その完全な解決を証明しました。

 教会はこれを「福音」と呼んで、世界中に伝え続け、信じて恵みに与った人々の心と生涯を通じて、神との関係の回復がもたらすものが何かを示し続け、現在に至っています。

 そのように、聖書を通して耳で聞き、思い描いたものは「信じる」ということを通して、天地創造以来、失われていた神のとの関係回復が起こり、その実体は不思議に「喜び」や「平安」となって表れてきます。

 そこから、素晴らしいと見える出来事の中にも、さらには悲惨と映ることの中にさえ、そこに働く神の導きと計画を期待し、希望を失わない態度、生き方が生み出されてきます。

 一見、無秩序や混乱と見える現実の中に、今も回復のために働いておられる神のわざを信ずるとき、見えるところに振り回されることなく、希望を神において、期待をもって生きる道があることをぜひ知っていただきたいと願ってやみません。

 「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」 (聖書)


※各集会の様子は「igm秋田教会」で検索するとご覧になれます。 

更新日: 2025-11-01

いのちのパン

オーナーからのメッセージ

 10月に入り、朝晩とエアコンに手が伸びず、涼から肌寒さへと季節が移ってゆくのが感じられるようになりました。今月もこころのリビングへようこそ!
 
 次々と刈入れが進む教会周辺の田園は、その年の務めを無事に果たし、丸坊主となった姿には満足と静かな達成感が漂っています。
 
 先月をもってNHKの朝ドラ「あんぱん」が終了しましたが、番組を貫くテーマが「いのち」であったように思います。モデルとなった「アンパンマン」の原作者であるやなせたかし氏の生涯から、にじむ平和への思いと、正義に対する求道の姿勢が、多くの子どもたちに愛されるヒーローへと結実し、その様子が、戦争の時代をはさんで克明に描かれていました。

 正義の味方が飢える者のもとを訪れ、自らを差し出してその必要を満たし、そのために弱くなってゆく姿は、それまでの単なる勧善懲悪もののストーリーとは一線を画したメッセージが込められており、それが幼い子どもたちの心に届けられることは、とても貴重なことだといえるでしょう。

 あるときキリストは集まった大勢の群衆の必要に対して、献げられた一人の少年のお弁当である五つのパンと二匹の魚を裂いて彼らのお腹を満たし、その余りを集めると12のかごがいっぱいになったと聖書にあります。

 また、それに続いて自らを「いのちのパン」と呼び「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも決して渇くことがありません」と語りました。さらに「だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのためのわたしの肉です。」と踏み込んだ説明をしています。

 これはのちに起きるキリストの十字架の死が、そのいのちを信じる者に与えることを示しており、現在、教会で行われている「聖餐式」パンとぶどう液をキリストのいのちの象徴として食する儀式となって、受け継がれています。

 思えば私たち一人ひとりのいのちもまた、まったくの頂き物であり、なにびともこれを造り出すことなどできません。いのちの創造者であるお方だけがこれを与えることができ、また「いのちのパン」であるキリストが与えるいのちは、永遠の神とのゆるがない関係をもたらすものとなって、私たちが等しく辿る、病気や加齢による衰えとは別の次元で日々、新たに私たちの心を満たしてゆくものとなります。

 そのいのちを与えるために、神のひとり子は人となって天から地に降り、私たちの痛む歩みと思いを味わい尽くし、人の弱さ、はかなさを知って、十字架でその生涯を終えました。

 しかし、そのいのちは今も十字架から流れ出て、信じる者を永遠のいのちに満たし続けています。誰であっても、このいのちを知る時、終わりの日に至るまで、満ち足りた人生を全うすることができるのです。

「わたし(キリスト)が来たのは羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」  聖書
 


※各集会の様子は「igm秋田教会」で検索するとご覧になれます。

更新日: 2025-10-02

実りの季節に

オーナーからのメッセージ

 9月を迎え、日中の残暑は依然厳しいものの、朝夕の虫の音は秋の訪れを静かに告げています。

 猛暑の季節もピークを過ぎ、夏の疲れも出やすい頃ですが、いかがお過ごしですか。

 教会の周囲は田園が広がり、日毎に色づく稲穂は、間もなく始まる収穫を待ち望むかのようです。米どころの秋田でさえ、昨年は店頭からお米のない時期がありました。この年の実りが、周囲からも多くの期待を受けている昨今です。

 聖書は神を農夫にたとえ、人を果樹に例えている箇所があります。そこにはたとえ大きく成長し、豊かに葉を茂らせていても、農夫が期待しているのは、結実であり、その収穫であることは明白です。

 キリストが地上を歩まれた時、神に礼拝をささげる神殿の中に、人々が祈るべきその場所で商売が行われ、金銭のやり取りがなされていることに憤り、その人々を追い出した、との記述があります。

 そうした一方で、神殿内では神に対する荘厳な儀式も同時に執り行われており、聖書はそうした営みを実のないいちじく桑に例えて、キリストがその木を呪うと、木はたちまち枯れたとあります。

 かつて高齢でありながら聖路加病院の理事長を務められた日野原重明氏は、子どもたちへの「いのちの授業」の中で、人のいのちを「その人が使うことのできる時間」と定義し、そのいのちを「誰かのために使ってください」と語りかけました。

 私たちの周りを見渡してみると、各々の地上の人生の長さは、その人自身で決めることができず、その終わり方も様々であることが分かります。

 その長さも、生まれ落ちた境遇や能力も自分で選ぶことはできず、すべては「与えられたもの」といえるでしょう。けれどもそれをどう用いて生きるかは、その当人の裁量に委ねられています。

 聖書はそのいのちの与え主である神が期待していることが「結実」「収穫」であると語り、別の聖書の個所では、それを「御霊の実」と呼び「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」といったリストを挙げています。

 「結実」という言葉から想起されるのは、それが目指すべき道徳や努力目標ではなく、ある条件下で当然のように生じ、結ばれるものといえるでしょう。

 それは私たちの心に蒔かれた種として、そのいのちを内に現わし、成長し、花を咲かせて結実に至ります。

 聖書に記されている数々の約束は私たちにとっての「いのちの種」であり、それは信じ受け入れられる時、その人生を実り豊かなものとしてゆくといえます。ある方はその最晩年、いのちの終わりを前にして「感謝、感謝の鈴なりじゃ」と周囲に語ったそうです。

 実りの秋、結実豊かな生涯を歩まれ、感謝のうちに全うされますようにとお勧めしてやみません。

 「過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです~これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。」 (聖書)


※各集会の様子は「igm秋田教会」で検索するとご覧になれます。

更新日: 2025-09-05

8月を迎えて

オーナーからのメッセージ

 8月に入り、真夏の日差しの日々が続いていますが、お変わりありませんか。今月もこころのリビングへようこそ!

 先日は例年、夏を前に教会でも庭先にBBQコンロやホットプレートを持ち出して皆でランチを囲むのが、この季節だからこその恒例行事となっています。

 共に食卓を囲むことの中には、心を開いてそこでの会話や互いの交流を楽しむ、という面があることでしょう。聖書の中でキリストは
 
「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
 と語ります。

 子どもたちを前に「お食事をいっしょにしたいのは仲のいい人?悪い人?」と尋ねるなら、すぐに「いい人!」と元気なこたえが返ってきます。そのようにキリストは私たちの心のドアをノックして、招き入れることを求めています。それは「ともに食事を」と続くように、親しい関係が相互に生まれることを求めているとわかります。

 それは、強いられた関係ではなくて、呼びかけに対する人の側の自由な応答があってのことです。この場面を描いた絵画の中には、内側にしか取っ手のない扉の前に立つキリストの姿があり、ボールはいつも人の側に投げられていて、キリストはその応答を待っている状態だといえるでしょう。

 私たちがこれに応えて心の戸を開けるとき、それは、その後の人生を、このお方との親しい関係の中で歩んでゆくことを意味しています。それは「決してあなたをひとりにしない」と言われる方と足並みを揃え、共に生きてゆく日々の始まりです。

 一人で歩む人生にさびしさや空しさを覚える時、それは私たちの応答を待っておられるお方が心の戸を叩き、呼びかけているのであって、私たちがこれに応ずるとき、特別なことが何もなくても、日々心満たされるということが、どういうことなのかを体験できます。

 ミュージシャンの岩渕まことさんは、それを「贈りもの」という曲に託してこう歌いました。

 ♪窓辺に揺れる光の中で透きとおる花びらや 木立を過ぎる風の姿に 神の愛が聞こえる♫
  ♪大空高くそびえる山に湧き上がる白い雲 季節を渡る鳥の群れに 神の愛が聞こえる♫
  ♪瞳に映るひとつひとつは神からの贈りもの 世界に満ちるすべてのものは神からの贈りもの♫

  先日は待ち望んでいた恵みの雨が降りました。今も注がれ続けている神さまの愛に浴することを、ぜひお知りになることができますように。

 「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」(聖書)


 ※各集会の様子は「igm秋田教会」で検索するとご覧になれます。

更新日: 2025-09-05

ひと呼吸の月に

オーナーからのメッセージ

5月という月は、先月末から続く連休と共に始まりますが、それは新年度からひと月を経て、新たな環境の中にある仕事や学びの手を休めて一呼吸し、改めて仕切り直しをしてゆく機会のようにも思えます。

 緊張がほぐれて周りを見渡す余裕と共に、これまでの反動として、程よく緩んだ心が疲れを自覚するのもこの時期で「五月病」とはよく言ったものです。

 聖書の中に
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
との、キリストの招きのことばが記されています。

 多くの教会がこの言葉を掲げて、案内用の看板に記しているのを見かけますが、それは総じて勤勉さが国民性となっている多くの日本人の感覚に沿ったものだからといえるでしょう。

 そして、キリストがこの言葉を語った時、そこにいたのはキリスト自らが弟子として招き寄せた12人が、各々派遣された奉仕を終えて再びキリストのもとに集まった時、つまりひと仕事終えて、その成果を持ち寄った時であり、キリスト自身もまたそれまでの働きを振り返って、一方で病人の癒しや、悪霊の追い出し等、人々が目を見張るようなわざを見ながら、心を動かしてキリストを受け入れるまでに至らない姿を嘆く思いがありました。

 「疲れ」というのは、単なる肉体疲労とは別に、働きの割に成果を感じられない時、失望を伴うものとしてやってくることがあります。人は自分のしていることが無意味に感じられる時、たまらない空しさ、徒労感にさいなまれることでしょう。

 けれどもそのような時「わたしのもとに来なさい」とキリストは私たちを招かれます。そして、キリストのもとで「休む」とは、単なる休息以上に、抱えていることを手放してみることだといえます。

 それは自分の思い描いた計画と方法で抱えている仕事や課題そのものが、実はキリストによって、まるごと抱えられていることに思いが至ることだといえるでしょう。

 初めて足を運ぶ場所を旅行していても、すべて自分ひとりでスケジュールを組んだ時と、そこに精通したガイドが同伴する時では、安心の度合いはずい分違ったものとなることでしょう。

 同様に、自分ひとりで目前の課題や困難に向き合っていると考える時と、そこに、この世界の森羅万象と自分の人生に精通したガイドがいっしょにいると感じる時とでは、やはりその重さは違ってきます。

 また聖書は人を羊にたとえ、神が羊飼いとなって導かれる人生の幸いを結論付けてこう語ります。

 「主は私の羊飼い 私は乏しいことがありません~まことに私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが私を追ってくるでしょう。」

 新年度からひと月、今後の不安材料を並べれば、いくらでも出てくるかもしれません。けれども「いのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追ってくる」のなら、振り返る時、すべては懐かしい思い出に変わるといえます。

 今は周りを見渡しても、頼りになる人を見出せず、自分がひとりぼっちだと感じることがあるかもしれません。けれどもキリストはそういう中で「疲れ、重荷を負っている」私たちに向かって「わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」言われます。

 「わたし(キリスト)のくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」 (聖書)


   ※各集会の様子は「igm秋田教会」で検索するとご覧になれます。

更新日: 2025-05-03

尽きない希望

オーナーからのメッセージ

 4月を迎え、春の芽吹きには少々間がありますが、各地から寄せられる桜の開花や春の話題を見聞きするようになりました。お変わりありませんか、今月もこころのリビングへようこそ!

 新年度を迎えて、新たな踏み出しと共に、これまでにない環境の中で過ごす方もおられることでしょう。

 聖書の中に
「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」
とあります。

 ここで言う「益となる」とは、必ずしも「万事思い通りに」ということではなく、その次に記されている

「神は、あらかじめ知っている人たちを、御子(キリスト)のかたちと同じ姿に定められた」とあり、神のひとり子であるキリストのごとく、愛の人とされてゆくことが意味されています。

 ですから、それは必ずしも順風満帆の人生ではなくて、そこに意に沿わない苦しみがあったとしても、それらがすべてキリストの持つ神の愛の深みへと私たちを整え、導くために用いられるということです。

 この月は、毎年教会で祝われているイースター(復活節)と呼ばれ、十字架につけられ墓に葬られたキリストが三日目の朝、死を打ち破ってよみがえられたことを記念するお祭りがあります。

 「死」といえばすべての怖れと苦しみ、究極の絶望であり、キリストはその絶望を「復活」により、尽きない希望へと変えられました。

 私たちはこの地上にいる間、様々な苦難を経験することですが、究極の「死」に打ち勝ったキリストが共におられる時、見える所がどん底の中にあっても尚、見上げることのできるお方がいることに、人の思いを超えた希望を抱くことができます。

 人生の途上において、不意の出来事や苦しみを避けては通れないお互いかもしれませんが、いつでもそこに揺るがない「希望」を持つことができたら幸いです。神はありとあらゆることをもって、私たちをこの死に打ち勝った「希望」そのものであるキリストに近づかせ、この方に似る者へと招いています。

 新たな環境の中に戸惑う時、先行きの見えない不安に恐れを覚える時、そこに「復活のキリスト」を計算に入れるなら、それらすべてさえも究極の「希望」に至る道となることを、ぜひ心に留めていただきたいのです。

 「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。」 (聖書)


  ※各集会の様子は「igm秋田教会」で検索するとご覧になれます。

更新日: 2025-04-03